【連載】新聞社の黒歴史に迫る #1「記者クラブ」が「思想戦戦士」になるまで

『言論統制というビジネス』著者、里見脩氏に聞く
ライター・編集者
  • 戦時中は言論統制が敷かれていた印象のある新聞の内実はどうだったのか
  • 政府・軍部と一体化した戦時期のメディア。部数拡大のビジネスチャンスだった
  • 筆者が驚いた記者倶楽部の描写。新聞社に歯向かうこともある頭の痛い存在

(編集部より)戦時中の報道機関は徹底的な言論統制が敷かれていましたが、内実はといえば、戦争の初期は新聞の部数拡大の好機と捉え、国威発揚にむしろ積極的に加担した側面もありました。そうしたメディアの「黒歴史」に迫った、元時事通信記者で、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員の里見脩さんの新刊『言論統制というビジネス―新聞社史から消された「戦争」―』(新潮選書)が注目されています。戦時中と変わらない病理は今も残るのか?里見さんに話を伺いました。

政府・軍部と一体化した戦時期のメディア

――『言論統制というビジネス』を拝読して、末端といえどもメディアにかかわっている人間としては身につまされるところが多くありました。ご著書では戦時期の15年間に焦点を合わせ、いかにメディアが自ら進んで体制に寄り添い、それによって営利を拡大していったか。まさにメディアと、政府・軍部の一体化です。しかし一方で、単純に「戦争を煽った、けしからん」と断罪しきれない実態が垣間見えます。

里見脩(さとみ・しゅう)1948年、福島県生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。博士(社会情報学)。時事通信社記者、四天王寺大学教授、大妻女子大学教授などを経て、2021年8月現在は大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員。主な著作に『新聞統合 戦時期におけるメディアと国家』(勁草書房)、『ニュース・エージェンシー 同盟通信社の興亡』(中公新書)、『岩波講座「帝国」日本の学知』第4巻(共著、岩波書店)、『メディア史を学ぶ人のために』(共著、世界思想社)など。

【里見】本書は戦時期のメディアのありようを扱ったものですが、「メディア批判」を前提、あるいは意図して執筆したものではありません。善悪の評価を下さないことに最も気を使いました。

戦時期と言われる15年間に何が行われたのか。報道には情報提供という「公的」な面と、営利を目的とする「私的」な面があります。戦時期はその両者が相まって、新聞社をはじめとするメディアはまさに言論統制に乗る形で営利を拡大していきました。しかも、そうしたメディアの特性は今もそう変わってはいません。この本では良い悪いという評価を避けて、あくまで「戦時期の言論空間」の構造を検証し、事実を提示することを心掛けました。

――だからこそ余計に、我が身を振り返らせるところがあるのかもしれません。特に本書の中心人物である古野伊之助は、私心なく国家のため、報道のためにやったことが、結果として体制との一体化を招いた面があります。欧米並みの通信社が必要だと考え、同盟通信社を設立。戦争が進む中で、「政府による統制を免れないなら、自主的に参加しよう」と考えた。

【里見】同盟通信社は、現在の共同通信、時事通信の下になった通信社で、戦後はGHQの圧迫などで、自主的分割に追い込まれました。

言論統制、というと通常は検閲によって、自由な言論が体制によって抑制された、というイメージを持つと思います。その時、いわばメディア側は「抑圧を受ける被害者」側として描かれがちです。しかし実態としては、「戦争は新聞を肥らせる」という言葉があるように、新聞社にとって戦争は大きなビジネスチャンスでもありました。この機運に乗り、営利を拡大しよう、と考えたのです。本書のタイトルもそこから来ています。

「弾圧」だけじゃない「言論統制」もう一つの形

――確かに、「統制」というと、検閲や言論弾圧をイメージしがちです。

【里見】ところが実際には、「統制」には「消極統制」と「積極統制」の二つがありました。前者は確かに「権力が自由な言論を抑圧すること」で、都合の悪い記事を検閲によってカットしたり、社や記者に圧力をかけてそうした記事を書かせないようにするものです。メディア側からすれば「受け身」の統制でもあります。

一方、後者は「権力によって都合のいいように活用すること」で、世論を誘導する装置として使うもの。様々な特権を与えて、「彼らがそうするように仕向ける」のです。

「言論統制」はこの両面を見なければなりませんが、これまでは前者ばかり注目されてきたように思います。

――当時の新聞などのメディアは自ら「積極統制」に参加していた。それは「戦時である」から、国のために協力することを是とし、政府や軍部の意向に逆らえば戦地取材や戦況報道ができない面もあった。さらには、購読者に関係する兵士たちの生死の情報を伝えなければならなかったんですね。

【里見】当時は徴兵制度がありましたからね。肉親が兵隊として戦争を戦っているため、読者は戦況や死亡記事を読みたがりました。当時唯一の情報源だった新聞を進んで買ったのはそれゆえであり、戦時下では新聞の種類が増えていった。昭和13年5月の時点で、全国総計13428紙もの新聞が存在していたのです。

――一県につき、30から数百種類もの新聞が存在していた。

【里見】はい。しかし政府は国策として、この新聞を「一県一紙」にすべく整理統合しました。なにせ検閲するにもこれだけ数が多くては大変ですし、新聞用紙やインクといった物資の節約を図った面もあります。

当初は内務省の特別高等警察(特高)が検閲していましたが、軍部はこうした「消極統制」ではだめだと言い出し、国力のすべてを戦争のために動員する総力戦に、新聞をも動員しようと考えたのです。そのため、「一県一紙」と整理統合したうえで、さらに「正しい戦争を支持し、協力するための世論作り」の道具として使ったのです。

bBear /PhotoAC

今も残る「一県一紙」と「記者クラブ」

――「一県一紙」体制は戦後も生き残り、今も続いています。

【里見】結局これは、新聞社にとってプラスの面があったからにほかなりません。「一県一紙」になる前は、新聞社は全国紙である朝日・毎日・読売の3紙が競い合いつつ、さらに3紙が地方に進出し、全国紙と地方紙の競争が激化しつつありました。しかも地方紙は地方紙で競っていました。

日中戦争がはじまると、さらに競争は激化。当時の売りである「戦争報道」は、記者を戦場へ派遣できる資本力に勝る全国紙に分があったので、地方紙からは悲鳴が上がり始めました。そこで地方紙は政府に対して「このままでは全国3紙に席巻されてしまう」と泣きついた。これが軍部の意図と一致し、「一県一紙」制度が整ったのです。

――これによって地方紙は、全国紙と戦える体制が整ったわけですね。

里見 新聞統合の結果、生み出されたのは「一県一紙」体制だけでなく、記者倶楽部や新聞社の株式の非上場、つまり社内持ち株制などもそうで、これらは現在も生き続けています。

――特に記者倶楽部の描写には驚きました。記者個人の集まりである「自治的機関」であるため統制がきかず、大臣や高官を謝罪や更迭に追い込んだり、いわゆる特オチで首にされた記者がいれば、記者倶楽部を挙げて反発したり。

里見 いわば記者個人が所属するギルドのようなものだったんですね。ゆえに団結して新聞社に牙をむくなど、新聞社からすればコントロール不能の、頭の痛い存在でした。しかしそれも日中戦争の戦況の悪化で次第に変容し、権力と結託して「枠内」に入り、さらには「新聞記者は思想戦戦士として読者を先導しなければならない」という意識に変わっていくのです。(#2へつづく

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