河野太郎氏「同性婚・夫婦別姓賛成」への反応に見る、戦後日本の病理

与党も野党も「ご都合主義」憲法解釈と運用
2021年09月24日 06:00
弁護士
  • 河野太郎氏の同性婚・選択的夫婦別姓への“賛成”を巡る反応に日本の病理
  • 同性婚の制度化は憲法問題。改正を必要とするはずが解釈改憲がまかり通る
  • 安保法制はOKで、同性婚がダメ?ダブスタでは野党が政権取っても病理のまま

ここ数年の“自民党×ジェンダー”といえば、明治文化のみが日本文化といわんばかりの歪んだ伝統感と、「家族」にとって「絆」といった“念力”まがいの呪文が飛び交うイメージが強かった。一方反自民(とりわけ反アベ・スガ)のみがアイデンティティの野党立憲民主党は、「政権交代しないとできないことがある」と泡を飛ばして選択夫婦別姓と同性婚の実現を主張した。

河野氏の同性婚・選択的夫婦別姓への“賛成”とは?

総裁選に出馬会見する河野氏(10日、写真:AFP/アフロ)

そんな中、自民党総裁選候補である河野太郎衆議院議員が16日、総裁選にあたっての報道各社のグループインタビューにおいて同性婚と選択的夫婦別姓制度に「賛成する」との意向を示した。

今回に限らず、河野氏は一貫してこの問題について3点セットで回答している。

  • ① 同性婚は賛成だが憲法上の問題を孕む。
  • ② 選択的夫婦別姓は賛成で、かつ、実質的になるべく早期に完全な夫婦別姓が実現するよう動くべきで、基本的には法律問題である(2001年11月16日河野公式サイト)。
  • ③ ①②の問題は、「価値観が問われる問題」であり党議拘束を外して広く議論すべき。

…の3点である。

河野氏の結論「賛成」のみをもって左右のメディア・知識人の賛否が騒がしいが、この①~③の主張の持つ本質的論点を議論することなく、「同性婚」といった記号に対する“脊髄反射的な”反応自体が我が国憲政の病理を端的に表している。その深層を診よう。

同性婚・夫婦別姓問題の深層とは

まず、①につき「憲法上の問題」との指摘は重い。つまり、同性婚を制度化するには婚姻について定めた憲法24条の改正を要するのか、現行憲法でも解釈によって可能なのかという点だ。

近時、同性婚について真正面から憲法判断を加えた札幌地裁判決(今年3月17日)によると、憲法制定当時、民法改正の際の「同性婚は当然に許されないもの」と「同様の理解の下に」憲法24条1項は規定されたもので、「そのため」24条は「同性婚について触れるところがないものと解する」とした。

判決は、憲法24条が「両性」「夫婦」という異性婚を想起する文言を用いていることからも、24条のフィールドでは同性婚に対する「具体的制度の構築を求める権利は保障されているものではない」ことから、14条の法の下の平等にフィールドを移し、「婚姻」の本質を「共同生活」まで薄めることで、婚姻から生じる法的効果=利益(相続等)の「一部ですらも」受けられない点をもって一部憲法14条違反と構成した。同判決からすれば、憲法制定の背景からしても本来的に同性婚の創設は憲法改正によることを「要請」していると考えるのが論理的帰結である。

Manuel-F-O /iStock

では、法律によって制度を創設することは「許容」されてすらいないのか。言い換えれば、権利保障的な「解釈改憲」は許されるのか?善い解釈改憲と悪い解釈改憲があるのか?ということになる。筆者は解釈改憲は一律望ましくないと考えている。

個別的自衛権を行使する自衛隊の創設までは解釈改憲OKだが集団的自衛権容認の解釈改憲はNG。69条に限定されていたはずの解散が7条で認めるという解釈改憲は好ましくないが、7条解散を縛る法律を作るという再度の解釈改憲はOK。これは自民党だけではなく、旧民主党及び立憲民主党を含めた左派野党勢力及びその御用憲法学者も認める解釈改憲のダブルスタンダードだ。結論において自陣にとって望ましければ解釈改憲OKという姿勢は、およそリベラルとも法の支配とも呼べない。

真正面から憲法改正によるべきかどうかの議論を避けると、憲法改正によるべきとした場合に果たして少数者の人権に関する問題を、国民投票の過半数(憲法96条)で決することは妥当かといった本質的問題にも行き着かない(近時の世論調査では、賛成が50~60%である)。国民投票は立憲的な権利保障とは潜在的に緊張関係にあり、河野氏③の指摘にあるように、党議拘束や会派の承認といった謎の不文律を排した超党的発議は不可欠であろう。

憲法に「書いていないから」問題ないのか?

世界各国の憲法の語数を比較した研究によれば(ケネス・盛・マッケルウェイン「日本国憲法の特異な構造が改憲を必要としてこなかった」『中央公論』2017年5月号)、世界の平均は約21000語(民主主義国家の平均は約23000語)であるのに対し、日本国憲法は4998語で極めて「簡素」かつ「抽象的」に書かれている。これは「規律密度」とも呼ばれ、詳細に書かれているほど憲法がカバーしている範囲が広く緻密に規律していることから、規律密度が「高い」ことになり、簡素かつ抽象的だと規律密度が「低い」ことになる。

規律密度が低い憲法には書いてあることが少なく、その「余白(=行間)」が極めて多いこととなる。この余白を埋めるのは誰か?当然、本来は我々主権者国民のはずだ。

憲法学者の山本龍彦は、リチャードタックの議論を引きつつ憲法を飛行機の“自動運転装置”になぞらえ、自動運転装置に詳細なプログラミングがされていれば、主権者はある程度「眠って」いられるとする。しかし、自動運転装置が日本国憲法のように簡略かつ抽象的な場合は、当初に設定したプログラムにバグが生じたときに主権者はすぐにそのバグを是正するよう「起きて」いなければならない。そうしないと、主権者は知らない間に憲法の「余白」を政治部門や司法官僚に「横取り」されてしまうのだ、と。

このような「眠れない」「未完の」憲法を有する日本国民であるにも拘らず、戦後教育ないし憲法の価値を尊重する“フリ”をした左派勢力が、日本国憲法はまるで「完成品」で「眠れる憲法」であるかのごとく喧伝し、「眠れる主権者」を大量生産した。彼らの姿勢は、主権者は「寝ていてくれればよい」と言ったいつぞやの総理大臣と結果的に同根であることは、、不幸を超えて喜劇的とすら言える。

kanzilyou/iStock

思えば、日本憲政史の75年は一部のエリート(官僚、政治家、学者etc)による憲法の「横取り」の歴史といっても過言ではない。砂川判決にみる「統治行為論」という司法権の判断放棄。上に見た自衛隊や解散権についての国民意思が一切介在しない内閣法制局を筆頭とした与野党政治部門による壮大な解釈改憲の数々。

この「余白」をまたもやエリートや政治部門の「解釈」によって埋めようとする姿勢は、戦後75年の主権の横取りを追認するものである。

「アベ・スガ的なるもの」と「枝野なるもの」は相似形

この「書いてないから認めてもいいじゃん」という姿勢は、安倍晋三から枝野幸男まで全く同じく通底する。自分たちのご都合主義的に憲法以下の法規範を融通無碍に「解釈と運用」で“何とかする”ことが「大人の知恵」という悪しき戦後日本型統治の典型である。すなわち、枝野立憲民主党に政権交代しても、日本型統治の根源的病理は全く治癒されない。

さらにいえば、枝野立憲民主党ないしその周辺に巣食うインフルエンサー(含む自称学者)は、リベラル(個人の自由×法の支配×明文のルール重視)でも何でもない。結局は「権威主義×人の支配×不文律と解釈・運用」を冠する戦後日本型統治手法を踏襲しており、彼らが批判する自民党政権と同質性が極めて高く、党内民主主義からすれば自民党のそれにすら劣ることが近時明らかである。上顧客向けに口先だけの「差別禁止」等は言っても、憲法裁判所等による制度的担保や司法アクセスの拡充、また、「国対政治」等々の悪しき不文律には全く言及しない。これのどこがリベラルか。

河野氏の同性婚及び夫婦別姓に対する意思表明を、結論“おいしいとこどり”で騒ぐ野党とネトウヨの姿は日本型統治の病理の化体であり、この“雑音”のその先に本質的問題の地平は広がっている。

より“マシ”なものを選んで微修正していくのが民主主義ならば、まずは、自民党総裁選という日本型統治の“お家芸”の進化系に期待してみるのが一番マシなのかもしれない、という悪い冗談の香りのする真実に行き着く。さて、結果はいかに。

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