コロナ長期化、私たちはリスクにどう向き合う?

「福島」の知恵が示唆するもの
東京慈恵会医科大学 臨床検査医学講座 講師
  • 感染のゼロリスクのない状態が長期化。あらゆる災害に脆弱となる危険
  • 型通りの批判が噴出。厳しい現実が続く上、政治という「二次災害」も
  • 過去の歴史が示唆するもの。原発事故の福島の人々の乗り越え方に学ぶ

東京や大阪などに発令された3度目の緊急事態宣言は、5月末まで延長されました。コロナ禍の予想以上の長期化を受け、私たちは「災害リスク」に対してどう向き合うべきなのか。原発事故後のあとの2013年から数年、福島県内で診療活動を行い、放射線リスクとの冷静な向き合い方について発信をされてきた医師の越智小枝さんが、大地震や原発事故とも異なるコロナ時代のリスクについて論じます。

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コロナ禍が始まり1年余りが経過した。今、新型コロナウイルスは、外から持ち込まれる特別な病原体である時期を過ぎ、世の中に日常的に存在するエンデミック期へと移行しつつある。それはすなわち、感染のゼロリスクのない状態が長期に持続するということだ。

このような時期に資源の不足とリスクの常在を想定しない対策を繰り返せば、それは社会の冗長性を食い尽くし、あらゆる災害に脆弱な社会を生み出し得るだろう。 

ハザードと脆弱性

災害とは何か。端的に言えば、それは

ある出来事(ハザード)を社会のキャパシティが許容できなくなった状態

と言える。つまり災害が起こる条件には、ハザードが想定外に大きいこと(大地震など)と、社会のキャパシティが些細なハザードも支えられない状態(政情不安など)の2通りがある。

地震のような短期災害が多い日本では、災害対策というと前者の災害のみが想定されがちだ。しかし災害は「非常事態」であっても「短期で終わる事態」とは限らない。とくに長期化する災害では徐々に後者の要素が強まることが多い。

災害対応の負のバブル

いずれの災害にも共通することは、人、モノ、カネの絶対的不足である。

短期災害であれば、その不足に対し

〇〇が足りない、だから補填する

という問題の裏返し的な解決も可能だろう。しかしその補填は今日の損失を明日へ、明日の損失を1月後へと移動させる「負のバブル」の構造だ。このバブルは金だけでなく人やインフラも含めた社会の冗長性を食い潰していく。

そして社会が冗長性を失う一番の恐ろしさは、その社会があらゆる災害に対し脆弱となることだ。紛争地域でのコレラの大流行、干ばつ後の大規模な暴動など、災害の連鎖は世界各地で繰り返されている。今の日本でもそれと同様のことが起きつつあるのではないだろうか。

たとえば日本で医療崩壊が突然顕在化した一因は、この1年間で医療の余力が燃え尽き、感染増加に耐え得なくなってしまった、つまり災害バブルがはじけた、という側面も大きい。同様の燃え尽きが他の産業においても起きている可能性は高い。災害大国である日本がゆとりを失った現状は、正に一触即発の状態であると言える。

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平時マインドの批判

問題は、この状況下でなお

「〇〇が足りないから補充すべき」

「××に対応できないのは人災だ」

という型にはまった批判が繰り返されていることだ。

災害時には叩けば物が出る「打ち出の小槌」など存在しない。そもそも人、モノ、時間が足りていれば災害と呼ばれないのだから、「災害は人災だ」という批判はトートロジーに過ぎないだろう。

禁欲という逃避

一方で、人々に我慢を強いるだけの対策もまた問題の裏返しに過ぎない場合もある。なぜならそれは

「皆が我慢すれば資源が足りる」

「皆が耐えればすぐにリスクはゼロになる」

という幻想を生むからだ。

もちろんある程度の我慢が感染拡大防止に必要であることは論を待たない。しかしエンデミック期の感染リスクが根性でゼロになるほど甘くないことは、既に世界中が証明している。

今我々が直視すべきは

「どんなに切り詰めても資源は足りない」

「どんなに我慢しても当面リスクはゼロにならない」

という、真に厳しい現実ではないだろうか。

「政治」という災害

誤解を恐れず言うならば、この絶対的な欠乏下で必然的に起こるのは、政治という二次災害だ。

もちろん政治がすべからく災害だと言う訳ではない。むしろ被害の総和を最小にする為に政治は不可欠だ。しかし資源の欠乏下に被害を最小にする決断は、たとえ最善のものであっても必ず一部の人間にとって「災害」となり得ることも必然だ。

つまり我々は、感染と政治という二重の災害リスクに長期に向き合わなければならないということだ。

災後の歴史に学ぶ

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類似の状況を10年前に経験した人々がいる。それは原発事故の後、放射能の不安と政治・世論に振り回された福島の方々だ。勿論彼らは災害を乗り越える「必殺技」を持っていたわけではない。

しかしだからこそ、その歴史には、我々一般人が災害と付き合うための多くの知恵が潜んでいるのではないだろうか。

これは私の感想にすぎないが、1つ例を挙げれば、福島ではいち早く政治や世論への依存をやめ、「普通に暮らせた」人こそが最もしなやかに災害を乗り越えていたように思う。

これは言うほど簡単ではない。有事に秩序を回復しようとする社会の自浄作用は、個人の暮らしを政治や世論に従わせようという強力な同調圧力を生むからだ。

その圧力の中で他力本願の我慢や徒な政治批判を捨て、自分を選ぶこと。その和して同じない生き方は、おそらく「自由」という最も困難な道だっただろう。

もちろん、これは私見に過ぎず、被災地にはもっと多様な生き方があるだろう。コロナ禍という自然も政治も味方にはならない今だからこそ、その多様な歴史を多くの人の目で振り返ることが重要なのではないだろうか。

 
東京慈恵会医科大学 臨床検査医学講座 講師

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