「私の第3極を作る目論みは終了」元みんなの党代表、渡辺喜美氏、無念の政界引退表明

松田公太氏「色々ありましたが」、上田都議「予定調和の政治に風穴」

参院選の公示を翌日に控えた21日、元みんなの党代表の渡辺喜美参院議員(無所属)がフェイスブックに投稿。「私の第3極を作る目論みは、終了いたしました。元みんなの党の皆様には、期待に応えることができず、誠に申し訳ありませんでした」と綴り、政界から引退する意向を表明した。

2012年11月、衆院選直前の党首討論で決意表明する、みんなの党代表時代の渡辺氏(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

父は、通産相、外相を歴任した渡辺美智雄氏。父の死去後、地盤を継承し、1996年衆院選で初当選。2006年の第1次安倍政権では行政改革や国家公務員制度などの特命担当相として初入閣し、再任した福田政権にかけて、霞が関の抵抗を受けながらも天下り規制などの改革を断行した。しかし大臣退任後、麻生政権で「改革が骨抜きになった」と反発。やがて自民党を離党し、2009年、無所属の江田憲司氏らと、みんなの党を創設し初代代表に就任した。

みんなの党は当時の日本の政界では珍しく、民営化などの小さな政府路線や新自由主義的な政策を標榜。結党時は5人からのスタートだったが、「自民党には不満がいっぱいだが、民主党には不安がいっぱい」(結党理念より)という都市部の民意を掴んで支持を拡大した。2010年参院選では10人が当選。12年衆院選も18人が当選するなど一時は「第三極ブーム」の立役者となった。

しかしその後は路線対立で党が分裂。党代表を下りた後は解党し、2014年衆院選で落選した。2年後の参院選ではおおさか維新の会(現日本維新の会)の比例代表として初当選したが、17年都議選に際し、党本部が小池都政に対決姿勢を示したことに反発して離党。以後、無所属で活動し続け、任期満了が近づくにつれ、去就が注目されていたが、渡辺氏を公認する政党はなく、出馬を断念した。

引退表明のニュースが流れると、ゆかりのあった政界関係者などがツイッターで次々と意見を表明した。かつて、みんなの党に所属し、近年も渡辺氏と近しい関係だった上田令子都議は「悔しくて残念で言葉もありません」と無念の思いを吐露した上で「護送船団方式、予定調和の日本の政治に風穴あけられ、多くの人材を地方議会と国会に送り出しお側で学ばせて頂き光栄でした」と功績を称えた。

離党により対立することになった維新だったが、足立康史衆院議員は「維新との関係では残念な最後でしたが、真っ当な政策論議の端緒を開いたご功績は、歴史に残るものと確信しています。ご指導賜り、ありがとうございました」と謝意を表明した。足立氏は経産省をやめて政治活動を始めた当初はみんなの党に入党し衆院選の出馬準備をしていたが、その後、維新から出馬した。

渡辺氏の元秘書で、のちに袂を分ち批判本を出した政策コンサルタントの室伏謙一氏は「長い間お疲れ様でした。第三極を作ろうという取組自体は意味があったと思います」と意義を述べた上で、「ブレてまげてくずれなければ、今頃みんなの党は一定の勢力になっていたことでしょう」と残念がっていた。

かつて、みんなの党で参院議員を務めた実業家の松田公太氏は22日未明、ツイッターで「色々ありましたが」とやや複雑な心境をのぞかせながらも「みんなの党、そして第三極の礎を築かれたのは凄い事です。 まだまだパワーがありますので、きっとこれからも日本に必要な改革の為に動いて頂けると信じています。 ひとまずお疲れ様でした」と、ねぎらいの言葉をかけていた。

渡辺氏のフェイスブックでの声明は以下の通り(全文)

私の第3極を作る目論みは、終了いたしました。

今回最後までご尽力くださった皆様には心から感謝申し上げます。また、私の政治活動を支えていただいた後援会や支持者の皆様、元みんなの党の皆様には、期待に応えることができず、誠に申し訳ありませんでした。

私は政界は引退しますが、これからは今まで蓄積した知識経験を持って世の中に尽くして参ります。第二の人生を考えると、不遜な言い方ですが、やりたいこと、やるべきことが山のようにようにあり、不安と同時にワクワク感で一杯です。

私は今年70歳になりました。ただ、心身ともにその実感が乏しく、日野原重明先生の「年齢の数え方7掛け説」で生きたいと思います。50手前という感じですね。
お世話になってきた皆様に改めて感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

 

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