コロナ戦争と医療専門家(後編)クラウゼヴィッツが与える示唆とは?

政治指導者にあって、専門家にない権利とは?
安全保障アナリスト/慶應義塾大学SFC研究所上席所員

前回の拙稿で、近年の政軍関係研究はクーデターの防止というテーゼを乗り越えて、政策決定における軍の影響力をどう評価し、どのように適切なものにするかが論点になっていることは述べた。それは医療専門家の見解が100%反映されることがコロナ対策ではないということだ。文民統制の論議はどのような視点をあたえてくれるのだろうか。

医療専門家の関与や発言に、文民統制はどんな知見?

コロナとの戦いを“戦争”と見なすのであれば、医療専門家や従事者は軍人ということになる。そもそも政軍関係研究の父で、『文明の衝突』でもおなじみのサミュエル・ハンチントンは、軍人を弁護士や医師と同様のプロフェッショナリズムを持つ存在と当てはめたのだから、これは先祖返りでもある。

ハンチントンは、プロフェッショナリズムを①専門技術の管理、②責任意識としての専門分野に対する責任、③専門集団意識としての他の社会団体と異なる特別な団体意識で構成されるとした(参照)。こうした知見は作戦、特に戦術や戦闘レベルでは有効ではあっても、作戦や特に戦略レベルでは怪しくなることは間違いない。

クラウゼウィッツの肖像画(ワッハ作:パブリックドメイン)

この点は未だに各国の戦争研究が基盤とし、文民統制の出発点ともされる、カール・フォン・クラウゼヴィッツによる『戦争論』でも明確に政治の優越性を語られている。

このような見解からすれば、戦争における重大な事象の判断や計画の作成を純粋に軍事的な判断に任せるべきであるという主張は、許し難い、それ自体危険な考え方である。実際に、戦争の計画に際して、多くの政府が普通に行っているように、軍人に助言を求め、純軍事的に判断するという方法は不合理である。

それ以上に不合理なことは、戦争や戦役の計画を純粋に軍事的視点で策定するために、国家が保有する戦争手段をすべて軍人に任せるべきであるという理論家の主張である。今日の軍事機構が非常に巨大で複雑なものになったとしても、戦争の大綱は常に政府によって、すなわち技術的に言えば、軍事機構によってではなく、政治機構によって決定されるべきことは、広く経験によって示されている。

このことは、ものごとの道理として当然のことである。政治情勢を考慮せずに、戦争計画の大綱を立案することは出来ない。

もちろん、クラウゼヴィッツは軍事的合理性を無視すべきと言っているのではない。軍事的合理性は、政治的合理性に奉仕すべきとしているのである。彼はこのように述べる。

ただし、政治家が特定の戦争手段や方法に対して誤った、それらの本質に適合しない効果を要求する場合だけは政治的な決定が戦争に有害な影響を及ぼすことがある。

しかしながらクラウゼヴィッツは、この場合であっても政治家が軍事に無知な為に政治的な意図が手段に結びついていないだけであり、政治の意図は間違っていないという立場なのである。

これを対コロナ戦争に当てはめれば、

  • 対コロナ戦争における重大な事象の判断や計画の作成を純粋に医療的な判断に任せるべきではない。
  • 対コロナ戦争の大綱は常に政府によって、すなわち技術的に言えば、医療機構によってではなく、政治機構によって決定されるべきである。
  • ただし、政治指導者が特定の感染症対策や方法に対して誤った、それらの本質に適合しない効果を要求する場合だけは政治的な決定が対コロナ戦争に有害な影響を及ぼす。現場が出来ないようなことを命じてはならない。

ということになる。

これは医療専門家の判断に政治指導者は丸投げしてはならないし、医療専門家の声ばかりが前提となってはならないとの示唆を我々に投げかける。

失敗を恐れ専門家任せにするな

新型コロナ分科会の尾身茂会長(官邸サイトより)

確かに諸外国が対コロナ戦争を呼号し、多くの類似点があるとはいえ、戦争とコロナとの戦いには看過しがたい違いが――特にコロナウイルスには戦争に必須の要素である政治的意図が存在しない。戦う側には間違いなく政治目的が存在するが――あるのは事実である

それでもなお、総合的な国力を発揮して、国家的危機と戦う際にあって、責任を取ることができない特定の専門家の見地のみで決定してはならないというクラウゼヴィッツの示唆は説得力を持つ。

いみじくもデューク大学教授のピーター・フィーバーは、選挙を経た文民指導者にのみ失敗する権利があって、軍人にはないと指摘している。これは失敗した文民は選挙での落選や政権交代によって責任をとれるが、失敗した軍人に責任を取らせることは出来ないということである。

裏を返せば、政治指導者には失敗する権利がある以上、失敗を恐れて専門家任せにしてはいけないということでもある。

今回の対コロナ戦争に勝利するためにも、医療専門家の専門性をどのように取り扱い、誰がその責任を取るのかを明確にするべきだ。その意味でクラウゼヴィッツやフィーバーの指摘を出発点とする議論を行うべきだ。

筆者は冒頭で述べたような考えを持つが、違う結論もあるだろう。しかしそれでよいのである。今大事なのは、こうした特殊な専門性の専門家の有事における発言をどのように取り扱うかの議論である。

今後、残念なことにCovid-20や21、そしてさらに凶悪な変異株の登場が遅いか早いかでしかない以上、そして台湾有事や日中戦争が不幸にも生起した場合、専門家の専門性をどのように取り扱い、誰がどのように責任を取るのか、ある程度の社会的コンセンサスが必要なのは間違いない。

(筆者よりおしらせ)渡瀬裕哉さん率いる一国民の会のコンテンツに参加していますので、ご興味のある方は是非。

 
安全保障アナリスト/慶應義塾大学SFC研究所上席所員

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