【AI速報】安倍元首相「国葬」、友人代表の菅前首相「日本の真のリーダー」

岸田氏、菅氏「追悼の辞」全文文字起こし

7月の参院選で奈良市での応援演説中に銃撃されて亡くなった安倍晋三元首相の国葬儀が27日午後2時から、東京・日本武道館で行われた。

写真:代表撮影/ロイター/アフロ

葬儀副委員長を務める松野官房長官が開式の辞を告げた後、自衛隊音楽隊による国歌演奏、参列者による黙祷を実施。さらに生前の安倍氏の政治家時代の足跡をまとめた政府制作の映像が上映。映像では安倍氏が亡くなる直前、自らピアノで演奏した「花を咲く」をBGMにアベノミクスやTPP、安保法制、拉致問題などの取り組みが回顧された。

その後、葬儀委員長を務める岸田文雄首相が追悼の辞を読み上げた。次いで、細田博之衆院議長、尾辻秀久参院議長、最高裁・戸倉三郎長官が登壇し、最後に友人代表として安倍政権を官房長官として支えた菅義偉前首相が弔辞を述べた。

SAKISIRU編集部は、AI録音文字起こしのアプリサービスを使い、岸田氏と菅氏の弔辞を速報で再録する。
(※速報版のため誤字等、適宜修正します。)

岸田首相「あなたこそ勇気の人」

国葬儀が執り行われるにあたり、ここに政府を代表し謹んで追悼の言葉を捧げます。
7月8日、選挙戦が最終盤を迎える中、安倍さん、あなたはいつもの通り、この国の進むべき道を聴衆の前で熱く語りかけておられた。
そして、突然、それは、暴力によって遮られたあってはならないことが起きてしまいました。
一体、誰がこんな日が来ることをすんぼうなりとも予知することができたでしょうか

安倍首相と会談する自民党政調会長時代の岸田氏(官邸HP)

安倍さん、あなたはまだまだ長く生きていてもらわなければならない人でした。
日本と世界の行く末を示す羅針盤として、この先も10年や20年、力を尽くしてくださるものと私は確信しておりました。
私ばかりではありません。

本日、ここに日本の各界各層から、世界中の国と地域からあなたを惜しむ方々が参列してくださいました。
皆、同じ思いを持ってあなたの姿にましを注いでいるはずです。
しかし、それはもはや叶うことはない。
残念でなりません。
痛恨の極みであります。

29年前、第40回衆議院議員総選挙に、あなたと私は初めて当選し、共に政治の世界へ飛び込みました。
私は同期の1人として、安全保障、外交について、さらには経済、社会保障に関しても、勉強と計算にたゆみなかったあなたの姿をつねに見てまいりました。

何よりも、北朝鮮が日本国民を連れ去った拉致事件について、あなたはまだ議会に席を得る遥か前から強い憤りを持ち、並々ならぬ正義感を持って関心を深めておられた姿を私は知っています。被害者の方々をついに連れ戻すことができなかったことは、さぞかし無念であったでしょう。私はあなたの遺志を継ぎ、一日千秋の思いで待つご家族の元に、拉致被害者が帰ってくることができるよう全力を尽くす所存です。

平成18年、あなたは52歳で内閣総理大臣になりました。
戦後に生を受けた人として初めての例でした。私たち世代の旗手として、当時、あなたが戦後置き去りにされた国家の根幹的な課題に次々とチャレンジされるのを期待と興奮を持って眺めたことを、今思い起こしております。

私たちの国、日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。まだまだ大いなる可能性を秘めている。それを引き出すのは、私たちの勇気と叡智と努力である。日本人であることを誇りに思い、日本の明日のために何をなすべきかを語り会おうではない、と。
戦後最も若い総理大臣が発した国民へのメッセージは、シンプルで明快でした。

戦後レジームからの脱却を唱え、防衛庁を独自の予算編成ができる防衛省に昇格させ、国民投票法を制定して、憲法改正に向けた大きな橋をかけられました。教育基本法を、約60年ぶりに改めて、新しい日本のアイデンティティの種を巻きました。

インドの国会に立ったあなたは、2つの海の交わりを解いて、インド太平洋という概念を初めて打ち出しました。
これらは全て今日に連なる石です。

その頃、あなたは国会で総理大臣とはどういうものかととの質問を受け、溶けた鉄を鋳型に流し込めば、それでできる鋳造品ではないと答えています。叩かれて叩かれてやっと形をなす鍛造品。それが総理というものだとそう言っています。鉄鋼マンとして世に出た人らしい例えです。

そんなあなたにとって、わずか1年で、総理の職務に自ら終始婦を打たねばならなかったことくらい辛いことはなかったでありましょう。
しかし、私たちはもうよく承知しています。

平成24年の暮れ、もう1度総理の座に着くまでに、あなたは自らを一層強い鍛造品として鍛えていたのです。

2つの海の交わりを解いたあなたはさらに考えを深め、自由で開かれたインド、太平洋というたくさんの国多くの人々を包摂する枠組みへと育てました。米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強した上に、年代の主張に基づき、インド、オーストラリアとの連携を充実させてクワッドの枠組みを作りました。あなたの重層的な外交が、世界のどの地域とも良好な関係を築かれた。
欧州、欧州との経済連携協定と戦略的パートナーシップ協定の締結え、そしてアジア地域、ユーラシア地域、中東、アフリカ、中南米地域と、これまでにない花壇で率直な外交を展開され、次々と深い協力関係を築かれていった。

平和安全補正、特定秘密保護法など、苦しい経過を乗り切って、あなたは常時させために、我が国の安全はより一層保てるようになりました。日本と地域、さらには世界の安全を支える頼もしい屋根をかけ、自由民主主義、人権と報の支配を重んじる開かれた国際秩序の維持増進に世界の誰より力を尽くしたのは、安倍晋三その人でした。

私は、外務大臣として、その同じ時代を生きてきた盟友として、あなたの内閣に加わり、日本外交の地平を広げる仕事に一位、先進、取り組むことができたことを、一生の誇りとすることでしょう。

国内にあっては、あなたは若い人々を、とりわけ女性を励ましました。
子育ての負担を少しでも和らげることで、希望縮小率を叶えようと努力をされた。
消費税を上げる代わりに増える歳入を保育費や学費を下げる道に用る決断をしたのは、その道の先に自信を取り戻した日本の若者が、新しい何かを生み出して日本を前に進めてくれるに違いないと信じていたからです。あなたは我が国憲政史上、最も長く世間にありましたが、歴史はその長さよりも達成した。功績によってあなたを記憶することでしょう。

「勇とはただしき事をなすことなり」という新渡戸稲造の言葉を、あなたは一度、防衛大学校の卒業式で使っています。
Courage is doing what is right.
安倍さん、あなたこそ勇気の人でありました。

一途な誠の人、熱い情けの人であって、友人をこよなく大切にし、昭恵夫人を深く愛した良き夫でもあったあなたのことを、私はいつまでも懐かしく思い出すだろうと思います。

そして、日本の世界中の多くの人たちが安倍総理の頃、安倍総理の時代などとあなたを懐かしむに違いありません。あなたが敷いた土台の上に持続的で全ての人が輝く包摂的な日本を、地域を世界を作っていくことを司会としてここに述べ、追悼の辞といたします。

安倍さん、安倍総理お疲れ様でした。
そして本当にありがとうございました。
どうか安らかにお休みください。

令和4年9月27日、日本国内閣総理大臣、岸田文雄。

菅義偉前首相「苦楽を共にし幸せでした」

7月の8日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命を取り止めて欲しい、あなたに、お目にかかりたい。同じ空間で同じ空気を共にしたい。
その一心で現地に向かい、そしてあなたならではの温かな微笑み、最後の一瞬、接することができました。

官邸サイト

あの運命の日から80日が経ってしまいました。
あれからも朝は来て、日が暮れていきます。

やかましかったセミはいつの間にかなりを潜め、高い空には秋の雲がたな引くようになりました。
季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに時は過ぎる。無情でも過ぎていくことに、私は未だに許せないものを覚えます。

天はなぜよりにもよってこのような悲劇を現実にし、命を失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか、悔しくてなりません。
悲しみと怒りを交互に感じながら今日のこの日を迎えました。

しかし、安倍総理とお呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ武道館の周りには花を捧げよう国葬儀に立ち合おうとたくさんの人が集まってくれています。
20代、30代の人たちが少なくないようです。

明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理。
あなたは、今日よりも明日の方が良くなる日本を作りたい、若い人たちに希望を持たせたいという強い信念を持ち、毎日毎日国民に
語りかけておられた。そして、日本を日本人を世界の真ん中で立つ、これがあなたの口癖でした。

次の時代を狙う人々が、未来を明るく思いがって初めて経済も成長するのだと。今あなたを慕う若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みを共にしたものとして、これ以上に嬉しいことはありません。報われた思いであります。

平成12年、日本政府は、北朝鮮に米を送ろうとしておりました。
私は当選まだ2回の議員でしたが、草の根の国民に届くなら良いがその保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでないと言って、
自民党総務会で大反対の意見を打ちましたところ、これが新聞に乗りました。すると記事を見たあなたは、会いたい、と電話をかけてくれました。「菅さんの言ってることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。

そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。
この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだ、と確信をしたのであります。
私が生涯誇りとするのはこの確信において1度として揺るがなかったことであります。

総理。
あなたは一度、持病が悪くなって総理の座を退きました。
そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬を随分と迷っておられました。
最後には2人で銀座の焼き鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。
それが使命だと思ったからです。

3時間後にはようやく首を縦に振ってくれた。
私は、このことを菅義偉生涯最大の達成としていつまでもしく思うであろうと思います。

総理が官邸にいる時は欠かさず、1日の1度気兼ねのない話をしました。
今でもふと1人になると、そうした日々の様子がわざわざと蘇ってまいります。

TPP交渉に入るのを、私はできれば時間をかけた方がいいという立場でした。
総理はタイミングをしてはならない。やるなら早い方がいいという意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
1歩後退すると勢いを失う。前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。
総理あなたの判断は、いつも正しかった。

弔辞を読み終えた菅前首相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

安倍総理、日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制
改正、組織犯罪処罰法など難しかった法案を全て成立をさせることができました。
どの1つを変えても、我が国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちは都市への感謝を捧げるものであります。

国難を突破し、強い日本を作る。
そして真の平和国家日本を、希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理。あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。いつも周りの人たちに心を配り、
優しさを降り注いだ。

総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8ヶ月。
私は本当に幸せでした。

私だけではなく、全てのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。
何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは我が国、日本にとっての真のリーダーでした。

衆議院第一会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武 著「山県有朋」です。
ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。

そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました
端をつけた箇所にあったのは故人を忍んで読んだ歌でありました。

総理。今この歌ぐらい。
私自身の思いをよく読んだ一首はありません。

かたりあひて尽し丶人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ

深い悲しみと寂しさを思います。
総理、本当にありがとうございました。
どうか安らかにお休みください。

令和4年9月27日
前内閣総理大臣、菅義偉

【更新 17:00】演説の一部を補正しました。参列した菅氏の画像を新たに追加しました。

 

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