大激論のLGBT法案、「条文報じず賛成論」メディアへの疑問

トランスジェンダーだけど法案に反対した研究者に聞く #1
ライター・編集者
  • 通常国会で提出が見送られたLGBT法案の論争は何だったのか
  • トランスジェンダー研究者の三橋順子さんはなぜ法案に反対したのか
  • 「女と言い張る男が女湯に侵入する」保守派の反対理由は妥当なのか

先の通常国会終盤、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーの人たちへの理解を促進するための法案(LGBT法案)を巡る与野党の動向が注目を集めた。オリンピック開幕を前に、自民党は稲田朋美衆議院議員らが野党側と法案を取りまとめたものの、「差別は許されない」との文言が盛り込まれたことから、自民党内の保守派を中心に強い反対論が噴出し、法案提出は見送られた。メディア側も「左右」に分かれて論じていたが、見落とされがちな問題の本質は何か?ジェンダー史やトランスジェンダー文化の研究者で、トランスジェンダー当事者でもある三橋順子さんに聞いた。(3回シリーズ)

nito100 / iStock

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法案全文を報じたメディアはなかった

――LGBT理解増進法案について、今国会での提出は見送られました。三橋さんは、この法案をどのように見ていましたか。

【三橋】成立に向けて進んでいると聞いたときには、やっと動き出したのだな、と思いました。動き出した動機は2021年3月に「同性婚訴訟」で札幌地裁が下した「同性婚を認めないのは憲法14条違反」とする判決にあるのでしょう。司法からの指摘に対して、立法の側が「対処しています」という姿勢を見せるために、長く「お蔵入り」になっていた法案を出してきたのだろう、と。

意外だったのは、法案の骨子は自民党案がベースになっているにしても、野党からの意見や指摘を取り入れる形で法案を修正したことです。これは、評価すべき政治判断だったと思います。その中で「差別は許されないものである」との文言も入りましたから、「この方向で進むのなら悪い話ではないな」と思っていました。

三橋順子(みつはし・じゅんこ)1955年生まれ。性社会・性文化史研究者。明治大学・都留文科大学・関東学院大学非常勤講師。主な研究分野はトランスジェンダー(性別越境)、買売春(戦後)の歴史的分析。著書に『女装と日本人』(講談社現代新書、橋本峰雄賞)、『新宿 「性なる街」の歴史地理』(朝日選書) など。

一方で、私が最も問題視していたのは、法案の部分的な表現や議論の断片的な経緯、あるいは当事者らの賛成の声は聞こえてくる一方で、一向に法案の全体像、実際の条文が明らかにされなかったことです。私自身、何度もブログやツイッターで「詳しい法案内容が分からないのは問題だ」と指摘しましたが、「推進すべき」としているメディアも、この法案がどういう条文で構成されているのか、紹介していませんでした。

これは賛否以前の問題です。賛成している人たちが条文を知らずに賛成していたとしたら問題ですし、内々に条文の全貌を把握していたとしても、一部の人だけが知っている状態で法案の是非が論じられるのはおかしな話です。しかし私がこういうことを言っても推進派のほとんどの人には黙殺されてしまいました。

そんななか、5月29日に法案の成立を進めていた公明党の谷合正明参議院議員がいわば「リーク」する形で実際の条文をツイートしました。私はそこで初めて法案の全体像を知ったのですが、読んでみてさらに「推進派がこの内容を知っていて賛成していたなら、それは知らずに賛成していたのと同じか、それ以上に問題がある」と判断し、ツイッターで明確に「法案に反対」と表明したのです。

「性自認」か「性同一性」か

――法案の理念には賛成だが条文には反対、あるいは当事者でありながら反対、という意見は、主要メディアではほとんど取り上げられませんでした。

【三橋】もちろん、私が反対する理由は一部保守派の反対論とは全く違うものです。しかし法案の文言に不備があったために、そこを反対派に突かれてしまったことも確かです。

特に問題なのは、第二条の「性自認」の定義です。「性自認」も「性同一性」も、「ジェンダー・アイデンティティ」を翻訳したものです。日本に「ジェンダー・アイデンティティ」という概念が海外から入ってきたのは1970年代の初め。「ジェンダー」を「性別」と訳し、「ジェンダー・アイデンティティ」は「性別同一性」とする訳が1973年の翻訳書に出てきます。その後、「性別同一性」は「性同一性」に変化しました。

それから少し経って、1979年に「性自認」という翻訳を使った翻訳書が出版されました。「性自認」という言葉は使いやすいので広まりました。私自身も大学の講義などでは、定義を示したうえで「性自認」という表現を使っていました。しかし、精神医学や臨床心理学における「ジェンダー・アイデンティティ」の訳語は昔も今も「性同一性」です。私自身は精神医学や臨床心理学の専門家ではないので、受け売りにはなりますが、法律という正規の文章に盛り込むのであれば定義がしっかりしている学術用語である「性同一性」を使うべきだと考えます。

――「性同一性」という言葉は「障害」と結びつきやすいから使わない方がいい、という意見も耳にしました。

三橋 確かに「ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー」は「性同一性障害」と訳されてきました。この言葉の「障害」という部分には私も含め批判的な人は多いですが、「性同一性」の部分を批判している学者や当事者は聞いたことがありません。「障害」に結びつくから「性同一性」は駄目だという意見は、なにか誤解があるのではないでしょうか。

「女と言い張る男が女湯に侵入」を許す?

――今回の法案は、元の自民党案で使われていた「性同一性」から「性自認」と表現を変えたことで、「『性自認』では自分がどう思うか次第だから、その場しのぎで『私は男です(女です)』と言い逃れができる、これは犯罪や混乱を誘発する」という指摘が、法案に反対する一部の保守派などから出ています。

【三橋】学術的に定義が甘い「性自認」という言葉を使ったことで、そうした批判を受ける余地ができてしまったということです。

ここ10年ほど、ジェンダー・アイデンティティに関する議論の中で出てきている論点として、自分の性別に関して「確信的な認識」を持っているかが問われるようになっています。「確信的な認識」とは、一時的なものではなく、ある程度の時間的継続性がある、その認識が時間的に継続しているかどうかを重視するということです。「ある程度の時間」をどの程度に見るかは議論の余地がありますが、短い人でも1年、私の感覚では5年、10年という継続性が必要ではないかと考えます。

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学術的にそうした考え方が強くなっていることを法案や議論の定義として付記していれば、反対派がよく事例に出す「女子トイレに侵入した男性が、その場だけ『私の心は女性です』と言って通用してしまう」と言った主張を否定する「防波堤」にすることができたでしょう。「時間的継続性」が必要である以上、その場しのぎの言い訳は通用しないからです。

さらに言えば、精神科医であれ、臨床心理の専門家であれ、ある人のジェンダー・アイデンティティが女性であるか、男性であるかを診断することはできませんし、しません。診断できるのは、本人が主張しているジェンダー・アイデンティティが安定的であり、時間的に継続しているか、どうかなのです。実際の診断の現場でも時間的継続性が重んじられています。

法案で単に「性自認を理由とする差別は許されない」としたときに、こうした時間的継続性や安定性が語義に含まれないと思われてしまう可能性があります。それを避けるためには、文言を「性同一性」に戻すか、あるいは翻訳語を遣わずに「ジェンダー・アイデンティティ」をそのまま使い、「ここでいう『ジェンダー・アイデンティティ』には、時間的継続性が含まれる」旨を明記する必要があるのではないでしょうか。

――そうすれば、痴漢など性犯罪的な目的で女子トイレや女湯に侵入しながら、見つかったら「心は女です」とその場しのぎで言い張ることは、もちろん今も許されませんが、法案成立後もより明確に許されなくなりますね。

三橋 「『心は女だ』とその場でだけ言い張って、女湯に侵入する男」はすぐに通報・逮捕すればいいんですよ。私たちトランスジェンダーが、日々どれほど気を使って公共のトイレやお風呂を使用しているか。そうした実態を知らずに、「心は女です」と犯罪の言い逃れをするような連中は許せないし、一方で、トランスジェンダー側の苦労や実態を知らないまま、法案反対のためにそうした事例を出して危機感を煽るのも、ほとんど言いがかりに近い。ただし、何度も言うようにそうした曲解を許す余地が「性自認」という言葉にあることも確かなので、この点は何らかの再修正が必要だと思います。(#2に続く)

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