自殺未遂も…『もしドラ』作者、「子の連れ去り」体験を告白

「当事者」岩崎夏海さんインタビュー #1
ジャーナリスト
  • 「子の連れ去り」当事者だった小説家の岩崎夏海さんにインタビュー
  • 1997年に長男誕生後に離婚。調停で月1回の面接も「かえって地獄」
  • 2度の自殺未遂も経験。長男とは6歳を最後に18年会わず

卓球元日本代表の福原愛さんが、台湾の卓球選手・江宏傑さんとの離婚に際して、「共同親権」のワードが注目を集めている。日本は単独親権制で、離婚後の夫婦のどちらかしか親権が得られない。このため、「親権の奪い合い」とも言える「子の連れ去り」「実子誘拐」が社会問題化していることはこれまでの拙稿でも紹介してきた。

子の連れ去りは年間数万件起きているとも言われるだけに、実は著名人にも当事者が少なくない。2009年に『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(通称「もしドラ」)が大ヒットした小説家・岩崎夏海さんもその1人だ。岩崎さんに、ご自身の経験、この問題の社会的背景を聞いた。岩崎さんが本格的にメディアに語るのは初めて。(3回シリーズ連載)

Zoomでインタビューに答える岩崎さん

帰宅したらもぬけの殻

――ご自身も「連れ去り」当事者とのことですが……。その経緯を可能な範囲でお願いします。

【岩崎】27歳の時に結婚して、1997年に第1子の男の子が生まれました。産後、元妻は1か月くらい実家に帰っていて、戻ってきて一緒に暮らし始めて2週間後くらいに突然出ていってしまった。

出ていく前に言い合いになってしまったことはありました。彼女は出産を機に仕事を辞めてしまっていたのですが、3年くらいは専業主婦として子どもを育てたいと言っていて、僕は働いたほうが良いと思っていたのでそれを伝えると、言い合いになってしまった。

――仕事に行っている間にいなくなってしまったのですか?

【岩崎】当時テレビ番組の放送作家をしていて、夕方に出かけて、夜中に収録、朝帰ってくるという仕事でした。ある朝家に帰ってきたらもぬけの殻。今言われているような、弁護士が介在して計画的に行われる連れ去りではなくて、発作的な連れ去りでした。実家に戻っていたのですが、距離も近いので軽く考えていた。実家に行くと、妻の母親に高圧的に「警察を呼びますよ」と言われて問答になり、その時は、妻と子どもに会うこともなく引き下がりました。

そこから1か月くらいして、妻側の友人同伴で3人で会い、離婚したい、一切かかわりを持ちたくないと告げられました。最初は意味が分からなかったんです。なんの前兆もなかったので、何かの間違いではないか? と話し合いました。僕の態度が、相手に議論を差しはさませない言い方で、あなたといると何も言えなくなる、と言われました。たしかに僕は弁が立つタイプなので……。

彼女は自分の意志を表現するのをよしとしない価値観で育ったので、不満をまったく表に出さなかった。僕も自分がそこまで鈍感な人間ではないと思っていたのですが、彼女みたいに完璧に自分の気持ちを押し殺す人には、後にも先にも会ったことがないです。

※画像はイメージです(minkokeshi/iStock)

月1面接で待ち受けていた「地獄」

――その時、お子さんのことについては話し合われたのですか?

【岩崎】僕は働いていたので、現実問題として養育するのは無理だったので、彼女が育てるしか道はないとは思っていました。でも「私が1人で育てる」と言うので、それはちょっと違うんじゃないかと。女性が妊娠している期間、男性の中にも、信じられないくらいの愛情が自然と育まれるものだと思います。その頃には、自分の中にそんなものがあるのか驚くくらい、強い愛情がありました。

彼女が家庭裁判所で調停してもらおうと提案してきたので、受け入れて、裁判所に行きました。裁判所で親権が欲しいと言ったら、男女1人ずついた調停員が、裁判と言うのは前例で決まると、このケースであなたは勝てる案件ではないと、遠回しに言われました。これは勝てないんだと理解しました。

争うことはせずに、当時は「面会交流」ではなく「面接」と言っていたが、調停1回だけで、面接を月1回と決め、離婚が成立しました。

――そこから「面接」でお子さんに会うようになったと…

【岩崎】調停から1年たった子どもが1歳半のころ、月1回の面接が始まりました。楽しみにしていたのですが、会ってみると、それがかえって地獄で。午後1時に会って4時に別れるコースでしたが、母親が子どもを連れ帰る姿を見るのがつらく、夜は気分が落ち込んで、何も手につかなくなりました。お風呂にも入る気力もない、人ともコミュニケーションできない、仕事もうまくいかない、まわりも遠巻きに見る、という状態に陥りました。

がんばる気力も失せて、すぐに1回目の自殺未遂をしました。その時は、死ぬのが怖くて死にきれなかった。そのとき、放送作家の仕事に行き詰まってしまったので、小説家への転職を目指しました。2年間がんばったんですけど、結局うまくいかず、2度目の自殺未遂を図って、そこでも死にきれなかった。

――その間、月1回の「面接」は続けていたのですか?

【岩崎】息子はもちろん、妻にも自殺未遂のことは言いませんでした。そもそも息子は、僕のことをずっと「お兄ちゃん」と呼んでいて、父親とも知りませんでした。なんとなく月に1回会うお兄ちゃんという認識だったと思います。ところが6歳になった頃、僕に対する敵意をむき出しにしてきました。母親がそう仕込んだというわけではなく、逆に何も言わなかったことによって、察したのだと思います。僕に対する何も言わない無言の憎しみみたいなものが元妻にはあって、それを子どもは敏感に察して、「この人と仲良くしたら母親にストレスがかかる」と、僕に対して敵意をむき出しにしたほうが自分の生存確率が高まると、彼なりの判断を下したのですね。

その段階で、彼女に対して、敵意をむき出しにしないような方法はないのか? と要望したのですが、母親は「私はなにもしていない」と。「なにもしないからそうなるんだ、諭すことはできないのか?」と頼むと、「なんであなたのために?」と物別れに終わりました。そのタイミングで、月1の面接はやめたいと元妻から連絡が来た。2003年、息子が6歳の時に面接もやめることになり、その後18年間、全く会っていないです。

僕自身は、息子が5~6歳までの頃までは2度自殺未遂をするほど苦しみましたが、彼が敵意をむき出しにしてくれたことで、かえってある種の諦めがついた。彼も人間としての意志と選択があってやったことだと思い、彼の選択だと受け入れました。

――今の離婚ビジネスの「フォーマット」とは少し違って、こう言っては語弊があるかもしれませんが、まだお互いの意思が大事にされているような気がします。

【岩崎】その通りで、今の方がよほどひどいですね。当時は「連れ去り」とか「実子誘拐」とかいう言葉はなく、この現象に名前はついていないし、今のように「離婚弁護士」という認識もなかった。元妻もそういう言葉や現象は知らなかったと思います。僕のケースは、今広がっている連れ去りのいわば「さきかげ」だったのではないかと。そのあとに、報道が出るようになり、僕以外にもそういうことで悩んでいる人がいるんだと知りました。父親と母親の間に強い葛藤があるというところに弁護士やNPOや活動家が目をつけたのが、今の離婚ビジネスということになるでしょう。

当時、僕の周囲にもそういう問題を抱えている人はいなかった。僕の頃は珍しかったですよ。その後増えていったのでは。

――この問題をメディアで扱う時に、イデオロギー論争になってしまったり、問題解決と離れたところでの議論になってしまう事が多いと思うのですが、その辺はどう思われますか?#2に続く

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