「明石神話」への執着…日本陸軍の「残念」な諜報活動に何を学ぶか

スターリン暗殺も潜入大失敗...
トゥルク大学 東アジア研究所所属
  • 戦前の日本の北欧での諜報活動は、日露戦争の明石元二郎の活躍が英雄視されたが…
  • 1930年代、ソ連の内部崩壊を狙う作戦を計画したが、畏怖と願望が一人歩き
  • スターリンなど要人暗殺を試みるもあっけなく失敗。それらの根本的な原因は?

(編集部より)例年8月は15日の終戦記念日にかけて、先の大戦を振り返ることが慣習になっていますが、戦争の悲惨さを知るだけでなく、戦略や戦術の失敗などは今日のビジネスパーソンにも与える示唆は多いはずです。旧陸軍の無謀な作戦といえば大本営のそれはおなじみですが、今回は多くの日本人に知られていない北欧での諜報活動の数々の失敗について、フィンランドのトゥルク大学を拠点に日本の諜報活動の歴史を研究している増永真悟さんに解説いただきます。

cyano66/iStock

畏怖と願望にとらわれた対ソ連諜報活動

諜報活動には「インテリジェンス・サイクル」と呼ばれる基礎があり、これは計画から事後評価までの5段階に分かれている。その目的は「意思決定者への的確な情報提供」であり、日本陸軍の戦間期北欧における諜報活動は当初からそれから逸脱していたと言える。

明石元二郎(1864〜1919:国立国会図書館サイト public domain)

日露戦争時、日本陸軍はスウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐を中心とした「明石工作」を実施し、ロシア帝国領の北欧諸国(フィンランドやラトビア)とコーカサス地方における反乱を援助し、戦争継続を不可能にするような計画を準備していた。明石工作については、近年の研究でロシア側が明石を完全な監視下に置くなど、失敗に終わったことが判明しているが、日本陸軍では「この明石工作こそが日本の勝利をもたらした」として英雄視され、後の陸軍中野学校においてもこれを模範とするような教育が行われていたとされる。

日露戦争後、第一次大戦を経て誕生したソ連は日本との対立関係を深め、1932年に日本の傀儡国家・満州国が建国されると、日本とソ連が中国大陸においても直接対峙するようになり、3-4年以内の対ソ連戦争勃発が危惧された。日本陸軍は1932年には将来の対ソ戦を見越した上で、開戦後すぐに謀略によるソ連の内部崩壊を狙う「1932年計画」を策定している。この計画で重視されたのはウクライナなどソ連領内の国々で、明らかに日露戦時の明石工作の再現を狙ったものであった。

そして、日本陸軍の野心は1935年頃から始まったナチス・ドイツとの提携によって、更に肥大化していく。ユーラシア大陸を横断する形で航空基地を建設し、開戦直後にソ連領内への大規模空襲を行う「防共回廊計画」やドイツ国防軍情報部と協力して平時にソ連領内へ工作員を送り込んでのソ連要人暗殺計画など、もはや戦時工作の枠を越えた、陸軍のソ連への畏怖と願望が一人歩きするような計画へと変貌していった。

北欧で謀略とプロパガンダに溺れた陸軍

1937年1月15日、日本陸軍フィンランド駐在武官の加藤義秀少佐はこの1932年計画に基づいて、ヘルシンキにある秘密警察本部を訪れ、同国におけるロシア系やウクライナ系移民らの対ソ連諜報活動への利用を内密に打診した。しかし、秘密警察からはやんわりと協力を拒否され、警察側は同月29日には在フィンランド・アメリカ公使館の領事らを招いて日本陸軍から協力を打診された旨と日本の諜報能力の低さについて辛辣な意見を交換している。

ワレニウス(WSOY kirjapaino Porvoo /Wikimedia public domain)

1937年夏に日中戦争が勃発すると、北欧方面での日本陸軍の工作活動は更に先鋭化する。欧米諸国では日本軍による中国への空襲や武に驕る戦時宣伝に反日感情が高まっており、ヘルシンキ武官室ではフィンランド軍のクルト・マルッティ=ワレニウス退役陸軍少将を日本と中国へ新聞特派員として派遣し、帰国後に出版したフィンランド語の著書で日本文化を紹介する体で、日中戦争における日本の正義を宣伝した。ただし、フィンランドの新聞各紙は日中戦争にあくまで中立の姿勢を維持し、戦間期を通じて報道が日本側に偏ることは無かった。

ワレニウスはフィンランド近現代史における要注意人物であり、「ラプア運動」という反共国家革新運動の指導者の1人として、元大統領誘拐事件に関与した事で陸軍参謀総長の座を追われた上で退役させられた。そして、退役後の1932年にはフィンランド軍の一部が起こしたクーデター事件を主導したため投獄されている。ワレニウスの日本との繋がりは長く、1930年には自分を冬季戦のアドバイザーとして雇用するよう日本の陸軍大臣に宛てて手紙を送っており、釈放後は芬日協会の会合などに積極的に参加していたとされる。いずれにせよ、彼の過激な政治思想と抵抗勢力への反発心は日本陸軍によって上手く利用される形となった。

1938年夏から秋にかけて、日本陸軍はフィンランドの南の国エストニアでより野心的な工作を実施した。「ガブリーロフ工作隊」と呼ばれる工作員3名をエストニアからソ連へ越境させて何らかの破壊活動を実施させようとした。しかし、高速艇を使った越境中にソ連国境警備隊と銃撃戦になり工作員1名が死亡し、このニュースはエストニアやイギリスの新聞で大々的に報じられる大失敗に終わった。潜入は陸路経由に切り替えられたが、工作員らは訓練不足でソ連潜入の恐怖から越境から数十時間で全員がエストニアへ戻ってきてしまった。エストニアでの失敗を活かしてか、1939年1月には日独共同でコーカサス方面から工作員10名を送り込んでスターリン暗殺を狙ったが、ソ連への情報漏れがあり、待ち伏せによってそのほとんどが死亡か逃走した。

日本陸軍の北欧での工作から学ぶ教訓

日本陸軍の戦間期北欧での諜報活動は、当初から厳密な諜報活動より外れており、謀略と工作による開戦後のソ連内部崩壊が目的であった。「明石神話の再現」への執着から始まった計画はドイツとの提携などによって次第に野心と願望だけが肥大化するようになり、また政治情勢の変化に振り回された結果、いずれの工作も失敗に終わるという結果となった。

細かい分析についてはここでは書かないが、日本陸軍の北欧における担当者らはやれる事は手当たり次第にやっていた感があり、この点で計画性の無さは否めない。やはりインテリジェンス・サイクルの初期段階である「計画」の時点で、何を目的・目標にするのかを明確しておく必要があっただろう。

【訂正】年号と人物名を一部訂正しました。

 
トゥルク大学 東アジア研究所所属

関連記事

編集部おすすめ

ランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

人気コメント記事ランキング

  • 週間
  • 月間

過去の記事