セコム創業者、飯田亮氏死去 〜 なぜ一般紙は“過小評価”してしまうのか

「安住は衰退」偉大な歩みと訃報の落差
報道アナリスト/株式会社ソーシャルラボ代表取締役
  • セコム創業者の飯田亮氏が死去。偉大なる起業家の歩み
  • 警備業界をゼロから作り上げたことも凄いが、特に傑出したのは?
  • 訃報記事の扱いで、日経と朝日・読売との「落差」に感じること

警備最大手、セコム創業者の飯田亮(いいだ・まこと)氏が今月7日、心不全で亡くなっていたことが分かった。89歳。同社が13日、明らかにした。

戦後日本の経済史に名前を残した創業経営者といえば、ソニーの盛田昭夫氏、ホンダの本田宗一郎氏、ヤマト運輸の小倉昌男氏、任天堂の山内溥氏、リクルートの江副浩正氏、京セラの稲盛和夫氏らが挙げられるが、国内で3兆円市場と言われる警備業界をゼロから作り上げた飯田氏もレジェンドの1人だと言える。

oasis2me /iStock

「安住は衰退」

1962年、日本初の警備会社である日本警備保障を設立。ガードマンという言葉がない時代、弁護士に名称の着想を得た「警務士」による警備業を始めた。当時は企業が社員に警備業務をさせていた時代、日本に全く存在しなかったマーケットからのスタートで苦労も絶えなかったが、大手企業も含めて顧客を掴み、2年後の東京オリンピックでは選手村の警備を担当。同年、TBS系のドラマ「ガードマン」の制作に協力し、ドラマの人気も相まって警備業の認知度が急上昇し、軌道に乗った。

この辺りまでは比較的知られている話だが、飯田氏の経営者として傑出している点は、一度創造した成功モデルを破壊できる豪胆さだろう。東京オリンピックの頃には「いつまでも人手に頼った警備でいいのだろうか」と思い始め、機械警備の開発に着手。並の経営者であれば、会社を拡大して何十万単位の警備員を雇う「人海戦術」に拘泥しただろうが、日頃は遠隔で監視をし、何かあれば警備員が駆けつける方式にシフトしていった。

またも「未知のモデル」。営業先への売り込みも試練だったが、機械警備スタート5年後の時点では、契約件数で機械警備は人の警備の4分の1。ある日、幹部を集めた合宿で人による巡回警備を廃止し、機械警備への切り替えを宣言すると、皆真っ青になったという。それでも妥協を許さず、数年をかけて機械警備へのシフトに成功。まさにイノベーションのジレンマを乗り越えた。飯田氏の“極意”は生前、日経の「私の履歴書」(2001年6月)の初回に記した次の言葉に集約される。

企業は常に新しい事業に挑戦しなければ存在価値はないと思う。未知の事業はリスクを伴うが、株主がそれを分かち合うために株式会社という制度があるのではないか。企業にとって安住は衰退だ

機械警備の最先端でもあったセコム(公式サイト)

日経と朝日・読売の落差

バブル崩壊後の失われた30年、日本経済が長らく停滞したのは、製造業を中心とした昭和後期のモデルに拘泥し、世界的なデジタル化の波に遅れたからなのは言うまでもあるまい。90年代の主要企業の経営陣は、飯田氏と同世代も多かったはずで、それぞれの業界に飯田氏のように脱皮できる経営者がもっといれば、日本経済はまた違った展開を辿れたのではないかと夢想せずにいられない。

そんな偉大な起業家であったにも関わらず、訃報を1面で取り上げた大手新聞は日経のみ。評伝も中面に掲載した。しかし一般紙はといえば、朝日と読売は第2社会面のベタ記事以下のスポット訃報という信じられない“過小評価”ぶりだ。

毎日新聞は短い本記を社会面に載せ、評伝を経済面に掲載していたので救われたような気がするが、いずれにせよ、部数1、2番手の新聞が評伝を即日で載せなかったことには違和感と驚きしかない。起業家や新興企業に何か問題があれば、過剰に叩いてイノベーションの芽を摘んできた一般紙の“悪しき習性”が滲み出るようにすら思えてならなかった。

余談だが、飯田氏は昨年2月に亡くなった石原慎太郎氏とは神奈川・湘南高校の同期生。猪瀬直樹氏が近日刊行する石原氏の評伝『太陽の男  石原慎太郎伝』(中央公論新社)では、2人の共通項として「共通の湘南の気風が漂っていたと思う」と評している。

ともに昭和、平成を「型破り」で駆け抜けた故人たちの原風景を思う。

 
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