「高齢の親が急変しても119番してはいけない」上野千鶴子氏のあざとい暴論

フェミニズムの大御所に本来論じてほしいこと
朝日新聞創業家
  • 「高齢の親が急変しても119番してはいけない」上野千鶴子氏の記事に物申す
  • 読み物としては面白くても真に受ける読者がいると危険かつ迷惑
  • 実害をまき散らす文章を書くより、フェミニズムの大御所が論ずべきは?

先日、身内に不幸があり、「自宅で高齢者の容態が急変した場合に119番通報をするべきか」ということを家族間で話し合いました。ネット上で参考になりそうな資料を探していると、『「高齢の親の容態が急変しても119番通報してはいけない」上野千鶴子がそう力説する理由』というプレジデントオンラインの記事が見つかりました。

内容は、「高齢者の場合、病態が急変したとき救急車を呼ぶことは、望ましくない延命につながる恐れがあり、やめるべきである」というもので、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)という上野氏の著書からの引用です。結論自体は、おそらく平均的な現代日本人の生死感に近い考え方であると思うのですが、この記事では重要なディテールや説明が脱落していて、これだけを読んで老親の終末期看護をしたらとんでもないことになりそうです。

上野千鶴子氏(写真:山田勉/アフロ)

いきなり「訪問看護ステーションに連絡」??

まず「119番する前に、家族がまずすべきことは、訪問看護ステーションに連絡することです。」という記事の主題自体が誤解を招きます。見ず知らずの患者に救急対応することが前提の消防署とは違い、急変時にいきなり近所の訪問看護ステーションに電話しても、あきれられるだけでしょう。

老人であろうと無かろうと、事故や急病、容態の急変時には119番通報をするのがほとんどの場合は正解です。主治医や訪問看護ステーションに連絡しても、機材も人員もなく、救急車を呼ばない限り実質的に何もできないので、結局は二度手間になるだけです。

例外は、本人を始め関係者全員が「無駄な延命治療はせずに可能な限り自宅に残りたい(残してあげたい)」という点で一致している場合です。

少なくとも、本人に少しでも「今回は助かりたい」という気持ちがあるのに、周囲が故意に救急通報をしなかったら、これは立派な犯罪です。ですから、面識のない老人の容態が急変したという連絡を突然受けたら、どんなステーションでも自動的に119番通報を勧めることになります。

生死に関係するような状況で訪問看護ステーションに出る幕があるとすれば、本人の元気なうちから自分の生死観を伝え、家族や主治医とその事業者との間に十分な信頼関係が築かれていた場合だけです。平素からの地道な努力とある種の幸運が重なってうまくいったような話を、誰でも簡単にできるかのように解説するこの記事は、読み物としては面白いかもしれませんが、少数でも真に受ける読者がいることを考えれば、危険かつ迷惑な話でしかありません

もとの著書ではさすがに、訪問看護ステーションとのつきあい方や患者本人の意思確認の重要性がしっかりと前提として…………触れられてないじゃないですか……こんな本がベストセラーなんですから、医療関係者はたまらないでしょう。

医師の介入を遠ざけるトンデモ論

また、本人の意思というのも、元気いっぱいのときと、少しは元気が残っているときと、苦しくなってからとで同じかどうか、同じで無いならどれが本当の意思なのか、といのは相当やっかいな問題です。人工透析を拒否していた患者が、最後に苦しくなってきて「透析してください」と言った例など結構あるようで……て、この話も著書に出てきますね。

ここでは、最終的に透析をしなかった医師をボロクソにけなしておれれますが、死の淵にある患者に対して、透析をしないのと、119番通報しないのとで、どこが違うのでしょうか。どっちも、よほど本人の意思が確認できない限り、やったらいかんことです。

101cats /iStock

一方、「無駄な延命治療であったとわかるのは、その治療を行ってからである」というパラドックスがあります。実際、高齢者でも誤嚥や感染症などで救急搬送され、早期に適切な治療を受け、数日後にはトコトコ歩いて退院したような例も多数あります。

事前に治療の効果を予測するには、エコーやCTなどの検査が必要なことが多く、入院しない限りそれらはできません。ですから、何があっても救急治療を受けないという決断をするには、本来なら簡単に直せるような症状であっけなく死ぬことも、自宅であるため緩和治療がうまくいかず苦しみながら死んで行くことも、覚悟しておかなければなりません。お気楽に「医師の役目は、介入を控えること」などと言っている場合ではないでしょう。

計算された暴言が生む実害

ちなみに、この話の中で上野氏は、

人工透析さえ続ければあと20年でも30年でも夫と共に生きることかできたはずでした(担当の外科医によれば「中止しなければ約4年間生きる可能性があった」というが、想定期間の根拠は定かではありません)。

などと医者に啖呵を切っていますが、これは計算された暴言ですね。何の根拠もなく途方もない数字(「20年でも30年でも」)を出しながら、同じセンテンスの中にわざわざカッコを入れて、専門家の見立て(約4年)に「根拠がわからん」と突っ込む。さすがに、わざとらし過ぎます。

上野千鶴子氏の名誉のために言っておきますが、ご自分の専門分野では(素人の私が何冊かの著書を見た限りですが)、こんな乱暴な論の運びをしているわけではなさそうです。ただ、高名な学者が専門外の一般書とはいえ、あちこちで実害が発生しかねない文章を書き散らすのはやめてほしいものです。

それより「男女平等の根拠はどこ」?

私個人としては、上野氏には、こんなトンデモ本を量産するより、フェミニズムの大御所として論じてほしいテーマがあります。「男女平等の根拠はどこにあるのか」ということです。フェミニズムが発祥した西欧文化圏では素朴で説得的な答えがあります。「聖書には神様の前での万人の平等が述べられています」というやつです。

男女平等に限らず、基本的人権にしろ、主権在民にしろ、社会福祉にしろ、共産主義にしろ、西欧社会での基本的価値主張は、その根源をキリスト教、具体的には聖書(特に新約聖書)に求めることはわりと簡単です。また、それで話がついているようです。では、聖書とは縁遠いわれわれ日本人などは、どうなのでしょう。

かの平塚雷鳥の言った「元始、女性は実に太陽であった」の「元始」とは、古事記などにある神話のことだと言われています。文明開化後の時代に、神話を根拠に社会的な主張をして意味があったかどうかは別にして、キリスト教文化とは一線を引いている点は重要です。上野氏はこういう部分をどう考えておられるのでしょう。

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