田中角栄からの卒業 #5 「天才」を生んだのは偶然か必然か?

「角栄システム」田原が発見→猪瀬が解剖
2021年05月05日 06:00
SAKISIRU編集長
  • 連載最終回。ルールメイカー角栄を発掘した田原総一朗、猪瀬直樹両氏に聞く
  • GHQ占領統治下でアメリカ型立法府のスタイルを田中角栄は実地で試したか
  • 角栄の傑出した政策的手腕を生んだのは時代の偶然か?必然か?

ここまで「ルールメーカー」として田中角栄の傑出した政策的手腕について述べてきたが、いまから約40年前、昭和50年代の半ばに掘り当てた先人がメディア界に2人いる。田原総一朗と猪瀬直樹。今でこそ全国区のビッグネームだが、「ルールメーカー」としての角栄が地味な扱いだったように、発掘当時の2人も知る人ぞ知る存在だった。

田中角栄 出典:内閣広報室の肖像写真をアレンジ

角栄の「秘密」を掘り当てた田原

「田中角栄ほど構想力のあった政治家はいなかった。前代未聞」。そう懐かしむ田原はロッキード事件以後のメディア界で角栄の信頼を勝ち得た数少ないジャーナリストの一人だ。そして、角栄の実務能力の根源を最初に掘り当てた。

『朝まで生テレビ』の司会者として著名になるのは後年のこと。60年代から70年代半ばにかけ、田原は東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクターや映画監督として過激なドキュメンタリー作品を制作していた。

角栄との“出会い”は、局を独立する1年ほど前。ロッキード事件で角栄が逮捕される直前、『中央公論』1976年7月号に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」という論考を寄稿。東南アジアに独自の資源ルートを開拓しようとした角栄が、メジャー(大手石油資本)が絶大な影響力を誇るアメリカの逆鱗に触れたのではないかという見立てを書いた。

当時の報道がバッシング一色だった中で、これが渦中の権力者に目に止まり、のちに田原の独占インタビューに応じることになる。田原がフリーになって4年後、角栄と目白の邸宅で直接対峙。月刊『文藝春秋』1981年2月号に掲載されたインタビューは、角栄が逮捕から5年の沈黙を破ったものだ。

角栄を直撃する田原(写真提供 文藝春秋)

この頃の角栄は裁判中とあって自民党を離れて無所属議員の身。それでも最大派閥を率い、時の政権を左右する実力者として健在だった。不思議に思った田原は秘書の1人に理由を尋ねると、こんな一言が返ってきた。

法律ですよ。田中は法律そのものなのです。法律を完全に駆使できる、使いこなせるのは田中一人しかいない。これが田中が現在でも力を持ち得ている秘密です。むろん金なんかじゃない。

角栄本人も田原の直撃にこう答えている(太字は筆者)。

ぼくのところへ毎朝のようにいっぱい役所の人たちがやってくるだろう。別にご機嫌伺いに来るわけじゃない。法律のことをききにくるのです。彼らの構想を持ってきて、「この法律の改正案はこれで国会を通りますか」などといろいろな問題を持ち込んできます。いってみれば私は法律や予算や制度のコンサルタントというわけです。

角栄との思い出を語る田原(撮影:武藤裕也)

高等小学校卒業の角栄が官僚に助言するだけの法律知識をどうやって得たのか。田原は長年の取材した成果を振り返る。

「初めて国会議員になったときに、彼はいつも『六法全書』を抱えていた。吉田茂は、彼は小学校卒だから馬鹿にして、吉田が田中に法律の第何条って3つ尋ねたら全部答えられた。それで吉田は感心して1年生議員を法務省の政務次官にする。なぜそんなに法律を知ってるのか。一つは、彼は子どものときからの吃音症。どもりを治すために毎朝畑へ出て『六法全書』を大きい声で読んだ。ほとんど暗記したと言う」。

そして、角栄が法律に精通したもう一つの理由を田原は指摘する。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)だ。角栄が政界入りした昭和22年(1947年)、日本はまだ占領下だった。

田原が「なぜ田中さんだけが法律にくわしいのか」と尋ねたのに対し、角栄はGHQから法律の原文入りのメモランダムを提示され、1行の修正も許可なしに許されなかったと振り返った上で、

洪水のように日本政府に発せられるメモランダム。それはまさに蛇口から出る水道の水を思わせた。私はその蛇口の下に位置し、自ら条文整理も行ない、時に占領軍メモに反して幾多の議員立法を立案したこともある。それがいまの私の法律に対する知識の基礎であるかも知れないんです。

などと語った(太字は筆者)。角栄が法律知識の原点を詳しく公に述べたのはこれが初だったとみられる。

構造を解剖した猪瀬

角栄の真の権力構造を解明した猪瀬(撮影:武藤裕也)

この田原が掘り当てた「ルールメイカー田中角栄」の存在をさらに深掘りして、全容に迫った新進気鋭のノンフィクション作家がいた。猪瀬直樹。当時34歳。近代日本の再構築を試み、『昭和16年夏の敗戦』などの取材で、日本国の意思決定構造に関心を深めていた。

猪瀬は、ロッキード事件の関連取材を重ねるうちに、角栄が作った「構造」に注目した。そして田原の記事などから「田中の権力の源泉が金のみではない」と気づき、往時を知る人たちを訪ね歩いた。

その取材成果は『道路特定財源の起源と田中角栄』と題した論考となって、雑誌「Bigman」1981年11月号(世界文化社)に掲載される。

若手議員の角栄が議員立法を多数手がけていた当時の衆院法制局長らを取材した当時について、猪瀬は「よく自分のところに話を聞きにきてくださった、という感じで話をしてくれた」と振り返る。

「政治家・田中角栄」がGHQ占領下で誕生したことの意義を猪瀬は論考でこう考察する。

田中はどうしたら立法府が行政府(官僚機構)に対して優位に立てるかということをおそらく考えていた。その時に着目したのが、GHQの持ち込んだアメリカ型民主主義の思想とシステムである。つまり、法律は立法府がつくり、行政府はそれを運用するだけの機関であるという考え方を実地で試すことであった。

一方で、角栄が田原インタビューで“GHQの蛇口の下にいた”と述べたことについて、猪瀬は丁寧に検証もする。立花隆氏らが「GHQとの折衝の場に一度もいなかった」などとする証言者の声を元に、角栄の発言がウソだと糾弾したのに対して、猪瀬は当時の関係者らを再取材。「GHQとの折衝は議員本人がいかねばならなかった」との証言を得て、「“蛇口の下”にいた、というのは体験をオーヴァーに語ったものかもしれない」と結論づける。

田中角栄(首相官邸HPより)

さらに猪瀬は田原のインタビューで、角栄が自身初の議員立法だった建築士法について言及していないことに着目。取材を進めるうちに、建設省の依頼があったこともスクープ。

さらに道路特定財源が誕生した裏にも建設省が関わっていたことも掘り当てる。その背景に運輸省との調整がつかず、行政府からの法案提出ができず、「困った時の角さん」とばかりに官僚側が角栄を頼りにしていた実態も浮き彫りにした。ただただ客観的にファクトを丹念に洗い出していった。

角栄を生んだのは時代の偶然が必然か?

しかし、角栄のような「ローメイカー」「ルールメイカー」の活躍の余地はしぼんでゆく。55年体制の誕生以後、自民党と官僚機構による政策決定がシステム化された。猪瀬は論考の結びで「ルールメイカー」としての角栄に脚光を浴びなかったことの着目されなかった問題点について述べている(太字は筆者)。

結局、いままでの田中角栄研究には、国会-行政府の歴史的・構造的理解が欠けていたように思う。田中はコンピューター付きブルドーザーであり、同時に、金力で権力をつかんだというダーティさが強調されていた。しかし、それだけではいくら田中でものし上がることはできなかった。

戦後民主主義という「制度」と田中という「個性」が交錯した時、初めて「総理大臣田中角栄」が誕生した。そして今日まで絶大な権力をもつ“闇将軍”として君臨していられるのだ。

論考の初出から今年でちょうど40年。「当時は駆け出しの無名。全く注目されなかった」という猪瀬があらためて振り返る。

「日本がアメリカに負けて、GHQが民主主義の構造を少し作り、田中角栄がそこに乗った。さまざまな偶然が絡み合って世界を作り上げていった」

「ルールメイカー」田中角栄を生んだのは時代の偶然が必然か?猪瀬の言葉を借りれば、角栄という「偶然」、制度という「必然」が奇跡的に織り成したのかもしれない。しかし時代は「個」から「システム」へ。あまりに肥大化・硬直化した今の永田町・霞が関で同じタイプのリーダーを待望するのは困難かもしれない。

それでもデジタル・トランスフォーメーション(DX)ひとつを取っても、前時代的な感覚を手放して、新時代に合わせる大胆な発想とモデル作りは求められている。焼け跡の時代が角栄の才覚を求めていたように、平成の敗戦とコロナ禍で打ちひしがれる衰退日本の反転攻勢という時代が求めるリーダーはいるはずだ。「令和の角栄像」についてはまた別の機会に述べてみたいと思う。(敬称略:おわり)

(#5 参考文献)

 

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