部活推薦は「地獄への道」〜 工学部の入試に“アスリート枠”は必要か

「部活動全廃論」シリーズ最終回
朝日新聞創業家
  • 村山恭平氏の部活動全廃論シリーズ、最終回は「部活と進学」
  • ある私大の教員時代に体験した「奇妙な推薦入試」とは?
  • 「一芸入試」の悪夢。ないがしろにされる「原点」

部活動全廃論シリーズの最終回は部活と進学がテーマです。まず、私が現役の大学教員だった時に聞いた奇妙な推薦入試の話からはじめましょう。20年以上前のことですから時効だと思うのですが、ある意味でかなり微妙な問題なので匿名で行きます。当時務めていたある大学の理系学部で入試を担当する同僚から聞いた話です。

acworks /PhotoAC(※画像はイメージです)

ある私大の奇妙な推薦入試

同僚「今年、うちのスポーツ推薦はラグビーのフッカーか、アメフトのセンターか、砲丸投げやねん」

「なるほど、瞬発力抜群の3人が最後の推薦枠を争うんだね。相撲ででも決めたらいいじゃないか」

同僚「それが違うねん。推薦を受ける選手の競技が、学科ごとに限定されているんや。」

「なんで工学部でそうなるの。どうせなら、アーティスティックスイムか新体操がいいよ。実技選考見に行くね」

同僚「おまえが現れたら即通報したる。各学科が受け入れる推薦生の競技は大学本部が決めよったらしい」

「今年は校舎の引っ越しがあるから運搬要員かな」

同僚「だったらむしろ、重量挙げかボートあたりがいいやろ」

「ならどうして”とりゃあ系”ばかりなのかな」

同僚「男子が多い学科に男子が多い競技を割りふったんやろ。変な話やけど」

世にも奇妙な推薦入試ですが、冷静に考えればかなりいい加減な代物です。フッカーやセンターがどんなポジションか、よく知っている大学教員はあまりいません。推薦書にある数字はチームの試合結果だけ。選手個人の能力をどうやって比較するのでしょうか。

残る砲丸投げにしたところが、最高成績だけなら出場機会が多い都会の受験生が有利です。また、競技の違う選手を比較(たとえばフッカー対砲丸)することもあり、デタラメ選考以外の何ものでもありません。スポーツに対しても受験生に対しても失礼な話です。

今にして思えば、入試委員が途方に暮れているところへ、某理事あたりから、「○○君がいいんじゃない」などという天の声だか悪魔の囁きだかが聞こえてきて……というパターンだったのかも知れません。もちろん根拠はありませんが。

入学式で「地獄へようこそ」

断っておきますが、これは日本有数の名門私大でのことで、若き日の私が歴任した各種Fラン大での「武勇伝」ではありません。理系のかなり特殊な分野の学科ですから、入学後、出席や成績が悪いとバンバン留年します。でも、その割に就職は冴えない……

大学には入れたけど…(AaronAmat /iStock ※画像はイメージです)

つまり、よほど好きでないなら来るべきではないところなのです。たまたま槍の代わりに砲丸を手にしたというだけの理由で、そんなイカツい学科に送り込まれてはたまりません。競技の方も、推薦で来たということで期待されていて、それなりの結果を要求されます。強いられた二刀流、文武強制……とにかくキツそうです。入学式の日には「地獄へようこそ」と思いました。

一方、教える方も困ります。それなりに数Ⅲ数Cを含む理系入試を突破した集団の中に、下手をすると微積分など見たこともない”素人”が混じることになります。大学生なんですから留年も退学も自己責任なのかもしれませんが、学力不問で受け入れた手前、学科として放置するわけにも行かず最低限の補習はすることになりました。やって意味があったのかどうか知りませんが。

「スポーツで鍛えた根性があり推薦されたことに恩義を感じている学生は、むしろ一般入試組よりも見込みがある」などと、無邪気にこんな推薦制度を運用している体育会関係の理事各位には、実感できないかも知れませんが、興味と適性と十分な基礎学力を前提とするハードなカリキュラムに、義理と根性だけで立ち向かえるとは思えません。くれぐれも教育関係者には、「学問はスポーツと同様に、ある程度以上専門的になると万人向けではなくなる」という原則を忘れて欲しくありません。

工学部の入試に科学技術に全く興味もリスペクトもないのに介入してくる……「部活動による人格形成」という美しい言葉に私が懐疑的なのは、こういうパワハラ的な体質が、事あるごとに露出するのが、我が国の部活文化だからです。

「一芸入試」の悪夢

west /iStock

この「事件」の10年ぐらい前に、関東のA大学で「一芸入試」というのが導入され、けん玉チャンピオンが合格したりして話題になったことがあります。けれども、けん玉はともかく、魚の三枚おろしやトランペットでの合格者が出たと聞いて、なんで調理師学校や音大に行かないのか不思議に思いました。当時大学院生だった私の指導教授は、「A大の先生方はけん玉の指導ができるのかな」と首をかしげていました。

入学試験で、学力以外の能力を選考基準にするのは、入学後にはそれを伸ばすことができる場合だけにするべきでしょう。たとえば高校生の楽器演奏が評価されるのは芸術系の大学だけ、スポーツで入学できるのは体育科だけ、という具合です。

もう一つ付け加えると、評価の対象は「実績」ではなく「実力」であるべきです。団体競技や合奏・合唱系では所属団体の成績に受験生個人の能力が必ずしも反映されません。また、あくまで入学試験なのですから、受験時点の能力以外が選考に加味されるのは不公平の温床になります。若者にとっては栄光も屈辱もそのとき限りのもの。「過去を評価してくれ」というのは老人のセリフです。

ないがしろにされる原点

「部活で発揮された忍耐力や協調性も内申書を通して入試に反映される方がいい」という意見もありますが、内申書にネガティブなことが書かれることはあまりありませんからお見合いの釣書と同様、担任の筆力勝負=内申書文学。いずれ生成AIが内申書を書くようになるでしょう。そんなものを人間の一生を決めるのに使っていいはずがありません。実際、前の記事のコメントにもありましたように、現在では部活の結果はあまり入試に反映されていないようです。

部活を通しての生活指導とか、勉強の苦手な子供にも居場所を作るとの考え方もありますが、「学校は勉強するところである」という原点がないがしろにされています。全ての学校が原点を死守できないのなら、学力格差は開くばかりです。学年トップにいても、将来はFランでない大学に行きたければいける程度の学力をつけるのが難しいような公立中学が、全国的に増加しているように思います。

あくまで私の印象論で証明も否定もしようのないことですが、教員のブラック労働とそれによる人員不足が改善されないようだと、この傾向はさらに悪化するでしょう。せめて義務教育段階までは、どんな地域のどんな家庭に生まれても「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」がしっかり守られるべきだと思いませんか。少なくとも公立学校の教員は、やはり部活などやっている場合ではないのです。

 

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